突然ですが、
僕の座右の銘を発表します。
タイトルにある通り「花は野にあるように」です。
これは2年半前、料理しないレストランで
野菜を切っていた時にふわぁっと決めたものです。
さてこの「花は野にあるように」という言葉ですが、
これはお茶の心得、利休七則のうちの一節です。
花は野に咲くように自然に生けなさい
という意味のシンプルな言葉ですが、
シンプルでいてとても奥が深い。
それはこの「ように」という表現と向き合い、
どのように理解して自分の中に落とし込んだか
が問われるからです。
(お茶の言葉は皆同じような難しさがありますが…)
「花は野にあるままに」と書いてあれば、
どれほど楽だったか…
お茶を習いたての頃、先生が
「花はたとえ一輪であったとしても、
見た人がその先を感じられるように生けなさい」
みたいなことを仰っていたような覚えがあります。
ネットで「花は野にあるように」と調べてみると、
お茶の世界の人からそうでなさそうな人まで
いろんな人がいろんな解釈で解説していました。
本質を見極めること。自然を尊ぶ心。… etc.
僕が持っているお茶の教科書(裏千家)には、
「確かに自然に生える花こそ美しく尊いのだけれど、
花それぞれのもつ自然の美しさ、
その生命の尊さを生かす工夫をしてこそ、
本当の意味がある」と書いてありました。
難しい…。
座右の銘にしてしまったことをちょっと後悔しています。
僕は「自分は何者なのか」とか「生きる意味」とか
そんなことをよく考えているような子供でした。
自分らしいとはどんなもので、
ありのままの自分とはどんな者か?
「自分」というものに対する興味は
幼い頃から人一倍強かったと思います。
大きくなった今でも時々アイデンティティについて
考えたり話したりしているので、
人って変わんねーなーと感じています。
そんな僕は大学生になり、お茶を習いはじめます。
先生から最初に教わったのが
利休さんの四規と七則でした。
先生の言葉を時々思い返して考えるのが
日課になっていた頃にひとつの疑問が生まれました。
利休さんは「花」は「野」にあるように
と仰いました。では、「僕」は「どこ」に?
ありのままの自分であることは確かに尊いのだけれど
僕の生命の尊さを生かすような工夫をしてこそ
そこに意味を見出せるのだとすれば、
「どこ」に身を置き何をするべきなんだろう?
そもそも、
ありのままの自分で居られる場所は「どこ」だろう?
簡単に答えがでるはずもなく、なんとなくこの疑問は
意識の片隅に置かれたままになっていきました。
ひさしぶりにこの疑問のことを思い出したのは
学生生活が終わりに近づいてきた頃でした。
この頃の僕は、内側に対する興味から、
(自分はどんな人間か?とか、どう生きようか?)
外側へ興味が向いていく境の時期でした。
(他者との関わり合いの中における自分の在り方)
ありがたいことに僕のまわりには
素敵な大人がたくさんいたので(もちろん同世代も)
色んな人と関わりながら改めて
自分を見つめ直す機会を多くとることができました。
自分の中にあるこう在りたいという自分と
これまで大切にしてきた自分らしさを時間をかけて
調和させることができるように
なってきたのもこの時期です。
その中で一番大きく変わったのは捉え方でした。
これまでの自分の物事の捉えるときの基準は
「正しさ」「美しさ」「面白さ」とかでしたが、
サティシュクマールの「真実には多様性がある」
という言葉を聴いた時から
少しずつ意識が変わっていきました。
そして、何を軸にして世界を見ようかと
1年間ぐらいぐだぐた考えてみた結果
「居心地」を大切にして生きよう と決めました。
自分とはどう在るもので、
どんな所に居心地の良さを感じるのか?
この頃にはだいぶ「自分」というものの解像度が
上がってきていたので、出そうと思えば
答えを出せそうな所まで来ていましたが、
あえて決めずにもう少し寝かせることにしました。
なので、「僕」は「どこ」にあるように?
という思考の旅は目的地につかぬまま終わりました。
2年半前にいた料理をしないレストランでは
野菜にはできる限り手を入れず、
素の状態で盛り付けるようにと教わりました。
味付けは最低限。
(きゅうりは3%の塩水にサッと浸ける程度)
野菜を切る時は切り過ぎないように。
(生えていた姿を想像できないほど細かくはしない)
そんなレストランにいた時も
お茶の言葉を大切にしながら働いていました。
そしてまた、当然こんな疑問が生まれます。
「花」は「野」にあるように
では、「野菜」は?
今度はとても簡単で答えは直ぐに出ました。
もちろん「畑」にあるように
では、「畑」は「どこ」にあるように?
これは今後も畑をしながら生きていこうと考えている
僕にとってとても重要な問いでした。
少し話が脱線しますが、
僕は農業を人間のエゴの塊だと捉えています。
畑というものは都会から見ればとても
緑豊かな場所に映るのかもしれませんが、
僕の目には人工的なもののように見えます。
(これはもちろん善し悪しの話をしているのではないので人間活動を悲観的に捉えているということではなく、畑という場所は人間と密に関わっている場所なので、人の考えや想いが見てとれるという意味です。)
花は野にある「ままに」ならわざわざ
茶室をこしらえる必要なんかなくて花が咲いたら
出かけて行ってそこで野点をすればいいわけですし、
自然を自然の「まま」残すことに重きを置くなら
わざわざ畑なんかやる必要はないわけです。
自然界と切り離された部屋の中で
枝から切り離された花を生ける行為は、
生態系の中に線を引きそこに手を入れる
農という行為はすごく似ている気がします。
「畑」は「地球/生態系」にあるように
思い通りにならない自然の中に
想いを込めて少しだけ手を加える。
というのが僕が目指す農の在り方だな
と
キッチンで思ったときに
「これだ」
と感じたので、僕の座右の銘は
「花は野にあるように」になりました。
思えばこの24年間は花に縁があったように思います。
幼稚園の年少さんの時に
七夕の短冊に先生が書いてくれた夢は
「おはなになりたい」だったそうです。
小さい頃はスミレが好きで
見つけるとよく道端にしゃがみこんでいたし、
小学校のサークル活動で選んだのは花道でした。
昔から料理を盛り付けるのが好きで、
バイキング形式のレストランに行ったときには
フルーツの横なんかにある
飾りの花まで皿にのせて席に戻ってくる子供でした。
中学校でも少し花道をやりました。
大学生からはスマホを持ったことで
写真を撮る機会がうんと増え、
フォルダーには花と料理の写真が増えていきました。
盛り付けをするために料理をするようになり、
花を皿に盛り付けるようになりました。
そんな僕は今、
畑をしながら岡山で一から料理を学んでいます。
生活が変わりあまり自分の時間が
とれない中でブログを書いているので、
次の記事がいつになるかはわかりませんが、
気長に待っていてくれると嬉しいです。
余談。
友達と在り方について話していた時に
種はなぜ愛おしいのか?
という問いを投げてみたことがあります。
僕は種の尊さを今この場に種として在ること
に対して見出したい。
芽を出し花を咲かせる可能性を秘めているから
尊いなんて思いたくない。
と言いました。
すると
でもほっといたら種は芽吹くんじゃない?
それも種でしょ
と返ってきました。
その日、僕は
新しい自分の愛し方を見つけた気がしました。